釧路行(帰郷?) [思い出]
忘れないうちに、2015/10/21釧路市立鳥取小学校梅組クラス会へ出かけた事を記しておく。
50年ぶりの、少なくとも40年ぶりの再訪となった。
鳥取小学校は、国道の北へ移転し、跡地は新聞社の印刷工場?になっていた。
高学年を過ごした、敷地の端、丸彦側、PTAが落葉松を植林した。
ひまわり幼稚園
体育館と隣り合う幼稚園
体育館の裏からニニシベツ川を見る。鳥中の通学路の橋、その先にはスリバチ山があった。
ここに堰があり、沈殿と呼ばれる工業用水の取水口があった。
クラス会には、担任の先生もいらして、地元釧路だけでなく東京、札幌、道内、60人のクラスのうち、20人以上集まった。
翌日は、修学旅行の再現で、地元の同級生が阿寒から横断道路経由で弟子屈を回って下さった。
阿寒へ向かう
お庭が作ってあった。
阿寒湖畔、「まりも羊羹」は今でもあるのかしら?
釧路への帰途、細岡湿原展望台から湿原を眺める。
旧新釧路川の始まり
遠くに工場の煙突
釧路市内まなぼっと幣舞より
釧路は三大夕日スポットだとか
子供の頃、テーブル状に見える日高山脈に沈む夕日を飽かず眺めていたっけ。
翌朝、米町公園よりの眺め、この後、厚岸方面へ連れて行ってもらった。
厳島神社
太平洋炭鉱の辺り
目の前は太平洋、昆布森海岸西方、映画「ライアンの娘」を思い出していた。
昆布森海岸東方、子供の頃はこの先にアメリカがあると思っていた。干場が広がる。
厚岸湾、大黒島も見えたような気がした。担任の先生の出身地が浜中村・貰人(もうらいと)だと聞いた。
翌日、札幌で闘病している先輩をお見舞いして帰京した。
先生・級友・旧友の皆さん、ありがとうございました。
変わらない日差し、風の街でした。
人生、こんな事もあるとつくづく思い、そして、私は釧路で過ごした日々が自分の人間としての礎となっている事を再認識したのだった。
50年ぶりの、少なくとも40年ぶりの再訪となった。
鳥取小学校は、国道の北へ移転し、跡地は新聞社の印刷工場?になっていた。
高学年を過ごした、敷地の端、丸彦側、PTAが落葉松を植林した。
ひまわり幼稚園
体育館と隣り合う幼稚園
体育館の裏からニニシベツ川を見る。鳥中の通学路の橋、その先にはスリバチ山があった。
ここに堰があり、沈殿と呼ばれる工業用水の取水口があった。
クラス会には、担任の先生もいらして、地元釧路だけでなく東京、札幌、道内、60人のクラスのうち、20人以上集まった。
翌日は、修学旅行の再現で、地元の同級生が阿寒から横断道路経由で弟子屈を回って下さった。
阿寒へ向かう
お庭が作ってあった。
阿寒湖畔、「まりも羊羹」は今でもあるのかしら?
釧路への帰途、細岡湿原展望台から湿原を眺める。
旧新釧路川の始まり
遠くに工場の煙突
釧路市内まなぼっと幣舞より
釧路は三大夕日スポットだとか
子供の頃、テーブル状に見える日高山脈に沈む夕日を飽かず眺めていたっけ。
翌朝、米町公園よりの眺め、この後、厚岸方面へ連れて行ってもらった。
厳島神社
太平洋炭鉱の辺り
目の前は太平洋、昆布森海岸西方、映画「ライアンの娘」を思い出していた。
昆布森海岸東方、子供の頃はこの先にアメリカがあると思っていた。干場が広がる。
厚岸湾、大黒島も見えたような気がした。担任の先生の出身地が浜中村・貰人(もうらいと)だと聞いた。
翌日、札幌で闘病している先輩をお見舞いして帰京した。
先生・級友・旧友の皆さん、ありがとうございました。
変わらない日差し、風の街でした。
人生、こんな事もあるとつくづく思い、そして、私は釧路で過ごした日々が自分の人間としての礎となっている事を再認識したのだった。
2015-12-31 18:39
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