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平和ボケの世間知らず [思い出]

コロナが終息しないうちに、ウクライナで戦争が始まり、その最中にまた中東の戦争がひどくなった。
何も終息しない間に次々に焦点が展開する。

ドキーンとした二つの心の痛みを思い出す。

一つ目は、1983年に夫の赴任先のヨルダンへ行った時のこと。
アンマンの飛行場から住まいのあるイルビッドへ北上し、ジェラシ遺跡も過ぎ、イルビッド近くを走っていた時、何もない土漠の中に鉄条網で囲って何かガラクタ?のようなかたまりが見えた。
産廃置き場かな?くらいに思ったら、それが難民キャンプだった。
そうと知った時、ドキーンとした。
自分は何て何も知らないで平和ボケしてるんだ!と思った。
電信柱も電線も見えず、水は何処まで汲みにいくのか?
何かあったら何処へ逃げようかと常に心づもりしておくものだと、夫に言われた。

二つ目は、2013年に一人でサンフランシスコへ行った時のこと。
街を歩いていると、車椅子で外出している人を何人か見かけた。
皆、自走式に乗って飛ばしている。
当時、母はホームに居て、よく車椅子を押して散歩に出ていた。
だから、車椅子といえば誰かが押すものと思っていた。でもアメリカでは車社会で暮らした人は高齢になっても一人で車椅子で飛ばしているのだと思ったのだ。
信号待ちで並んだ時に隣り合わせた車椅子を見て、ドキーン、
若い男性だった。
アメリカは、ずーっと戦争し派兵を続けて来て、傷痍軍人さん達をずっと社会で抱えて来ていたのだ。
自分は何ておめでたい平和ボケした平和憲法の日本人なんだと思った。

コロナで小松左京の「復活の日」を思い出し、最近の戦争で「スターウォーズ」を思った。
これが人の世の常なのか?
地球外からの訪問者があったら、地球の力を合わせて地球外と仲良くできるのか?

シダ植物が、恐竜が、地球上に大繁殖した時があり、私が生まれた1950年から今までに地球の人口は2倍以上に増えた今は人新世とか。
どうなる人間!どうする人間!

しっかりと次の世代を育てて今の自分ができる事を続けて暮らしていくばかりだ。

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釧路から東京へ [思い出]

2018年7月に釧路で恩師を囲む会があり、出かけた時の事

マイルが往復にちょっと不足だったので、片道をJRに乗ってみようと思った。
新幹線もできた事だし、何せ青函トンネルを通った事がないのだから。
青函トンネルがメインとすると、帰途をJRにして旧青森駅まで明るければ、後は東京までその日のうちに帰宅できそうなので、往きが飛行機 帰りがJRと固まった。

釧路08:23→20:32東京(こちらなら青森は絶対日没前)
釧路11:24→23:04東京
2本もあります。隔世の感!

小学2年生の時に、祖父の葬儀で釧路から鉄道で上京した旅(上野まで2晩かかりました)の追体験をしてみたかったのだ。
そうなのです、「まりも」という夜行でした。
小2年の7月初旬の朝、「チチキトク」という電報が母へ届きました。
学校へ行っておいで、と登校しました。
帰宅後、夕方には「チチシス』の電報が届きました。
まだ、釧路に飛行場はなく、千歳まで行っての飛行機でした。
母と前年11月に生まれた弟だけでも飛行機でと手を尽くしたようですが、もう亡くなったからみんな一緒に鉄道でと父母、小2の私、幼稚園の妹、7ヶ月の弟の家族5人で「まりも」の2等車で出ました。
寝台車は、今日の今日で、全員分は取れませんでした。
父と小さい兄弟が寝台車で、私と母は2等車の座席で。

ウトウト寝入り、気がつくと汽車は停まっていて、辺りは明るくなっていました。
「フラノー、フラノー」と聞こえました。
母が、「狩勝峠を越えたのよ」と話してくれました。
初めて富良野に出会いました。
その後、富良野はどんどん有名になりましたが、私には狩勝峠を越えた富良野のままでした。
機関車の付け替えか何かで?結構長い間停車していた記憶があります。すっかり夏の夜は明けて気持ちの良い朝になっていました。
そして、そのまま根室本線から函館本線を通り、夕方函館に着きました。
青函連絡船で4時間?青森から又夜行に乗り、翌朝、上野駅に着きました。

まだ、7ヶ月の弟と幼稚園児の妹と小2の私を連れての2晩がかりは、ありったけのオムツを持って両親はさぞや大変だっただろうと思います。
弟は、東京に着くとすぐにアセモまみれになりました。
なぜか、帰り道の記憶は無いのですが、60年前の昭和のお話です。
平和でこうだから、難民さん達には本当に胸がつまります。
これが、今ではJRで12時間で走る!夢の様です。

今回の旅の私の密かなミッションでした。

みどりの窓口のお兄さんにも、「すっと乗って長いですが、大丈夫ですか?」と言われました。
鉄男君の長男にも、同じ事を言われましたが、ヨーロッパやアメリカに行く飛行機は同じくらいかかり、しかも狭い座席で立つ事もできないから平気!窓の外を見てれば時間はすぐ経ってしまうよ!

懐かしい思い出と共に、そんなJRの車窓にしがみついての帰京となった釧路行きでした。

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共通テーマ:日記・雑感

感謝 犬養道子さん [思い出]

この夏、高齢でいらした犬養道子さんの訃報が流れた。
大きな影響を受けた方、ご冥福をお祈り致します。

最初の出会いは、学生時代、母が定期購読していた「ミセス」と言う雑誌に連載していた「私のヨーロッパ」。
毎月、楽しみに読んだ。
分かりやすい文章で、Rationalismに興味を持ち始めた私にこんな方が活躍なさっているのだと、憧れた。
小さい国々が、独自の言葉を守り、国境を決め、それぞれの文化を大切にしながら、互いを尊重するヨーロッパをキリスト教を含めて書かれていた。
今になれば世界大戦を経てECから始まりEUとなりリアルタイムで経験した現代史があるが、1960年代の十代の私はなるほどそうか!と思わせられた。
高校の倫理社会の時間に、1年間ベーコンとロックの話ばかりして下さった先生がいらしたが、その後のヨーロッパ大陸での歴史のつながりの今(当時)があった。
その後、資生堂の今でいうフリーペーパー?「花椿」の塩野七生さんのイタリアについての連載が毎号楽しみだった。自分と大して年が違わないのに、一家言持ってるすごいお姉さんだと。
こんな風に私の西洋史観は作られ始めた。

二人目の出産の後に初めて読んだ活字が、犬養道子著「人間の大地」だった。
直前まで夫の赴任先のヨルダンで、砂漠の中のガレキの捨て場?と思ったら難民キャンプだったりなどびっくり経験していたので、母乳が不足してきた時に安心して粉ミルクを飲ませられる国での子育てがありがたかった。
子供たちが成人するまで20年間UNHCRみどり一本に寄付を続けた。
最近は、難民さんが大変なので、難民さんの緊急援助にしている。
生きるには喜びとか希望が必要なので、食べ物だけでなくボール1個でもハーモニカ1本でも子供たちにあると良いとか、気まぐれの100万円より確実な毎年の1万円の寄付が良いとか学び、古着と一緒にスペリオパイプを入れたりした。

最近は東北の震災があり、熊本地震が続いた。
毎日すべき事を同じ様に続ける事ができる平和のありがたさ。
自分の荷を担ってしっかり生きていける様、大きな教えを頂いた。

ありがとうございました。

そして、今朝、テレビでJアラートが表示された。
キナ臭い。
狭い庭には、今朝も穏やかな時間が流れている。
平和を祈念する。

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スターウォーズ [思い出]

落ち着いてきたので、スターウォーズの最新作を見に出かけた。

特別な想い出がある。
夫と一緒に見た最初の映画がスターウォーズ第1作だった。
そして、27年後、酸素ボンベや吸引機を背負って最後に見たのもスターウォーズ第6作だった。
槍の代わりに鉛筆を持ったドン・キホーテの夫が夢中になった物語で、自宅はダースベーダーがモチーフとなっている。

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今作品中でも繰り返される父と息子の関係が切ない。
闘病中も1〜6作を繰り返し再生していたが、いつもダースベーダーの
「ディア サン アイム ヨー ファーザー」のくだりで、涙を流していた。
伝わらないように思える息子への思いが無念だったろう。
10年経ち、誰の助けも借りず家出同然の形で自力で独立していった長男を天国から見て何を思うだろうか?泣けてくる。
ルーク・スカイウォーカーもハン・ソロもレイア姫も団塊の世代と共に、皆歳をとった。
Time goes on.

めそめそしていたら雪まで降り、落ち込んではいられない。
九品仏で見つけた蝋梅、香っていました。

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寒気が入り冷え込んでいるが、日差しは明るくなってきている。
断捨離ついでにお手玉を作った。
楽しんで、今をしっかり生きよう!

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釧路行(帰郷?) [思い出]

忘れないうちに、2015/10/21釧路市立鳥取小学校梅組クラス会へ出かけた事を記しておく。
50年ぶりの、少なくとも40年ぶりの再訪となった。

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鳥取小学校は、国道の北へ移転し、跡地は新聞社の印刷工場?になっていた。

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高学年を過ごした、敷地の端、丸彦側、PTAが落葉松を植林した。

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ひまわり幼稚園

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体育館と隣り合う幼稚園

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体育館の裏からニニシベツ川を見る。鳥中の通学路の橋、その先にはスリバチ山があった。
ここに堰があり、沈殿と呼ばれる工業用水の取水口があった。

クラス会には、担任の先生もいらして、地元釧路だけでなく東京、札幌、道内、60人のクラスのうち、20人以上集まった。

翌日は、修学旅行の再現で、地元の同級生が阿寒から横断道路経由で弟子屈を回って下さった。
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阿寒へ向かう

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お庭が作ってあった。

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阿寒湖畔、「まりも羊羹」は今でもあるのかしら?

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釧路への帰途、細岡湿原展望台から湿原を眺める。

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旧新釧路川の始まり

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遠くに工場の煙突

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釧路市内まなぼっと幣舞より

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釧路は三大夕日スポットだとか

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子供の頃、テーブル状に見える日高山脈に沈む夕日を飽かず眺めていたっけ。

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翌朝、米町公園よりの眺め、この後、厚岸方面へ連れて行ってもらった。

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厳島神社

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太平洋炭鉱の辺り

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目の前は太平洋、昆布森海岸西方、映画「ライアンの娘」を思い出していた。

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昆布森海岸東方、子供の頃はこの先にアメリカがあると思っていた。干場が広がる。
厚岸湾、大黒島も見えたような気がした。担任の先生の出身地が浜中村・貰人(もうらいと)だと聞いた。

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翌日、札幌で闘病している先輩をお見舞いして帰京した。

先生・級友・旧友の皆さん、ありがとうございました。
変わらない日差し、風の街でした。
人生、こんな事もあるとつくづく思い、そして、私は釧路で過ごした日々が自分の人間としての礎となっている事を再認識したのだった。


ヨルダン [思い出]

最近、ISがらみでヨルダンがニュースによく登場する。
ヨルダンは、30年以上昔、亡夫が赴任していた国で、私も訪れたことがある。
まだ、今の王様の父上のフセイン国王の時代だった。

もう時効だと思うが、今まで誰にも話した事もないが、当時、ヨルダンであれ他の場所であれ、夫が出張や滞在する時には、心の中で1%以下かもしれないが帰って来ないかもしれない可能性を覚悟していた事を思い出した。
当時は、紛争やテロだけでなく飛行機が墜落したりハイジャックされたりしていた。
ご主人が会社から帰ると「朝より一回り大きくなっている」とおっしゃる様なステキな奥様とは違い、99%しか信じられない自分を少し恥じていた。

夫がヨルダンに単身赴任中に澤地久枝著「蒼海よ眠れ」を読んだ。
企業戦士などと呼ばれて単身赴任するサラリーマンだが、究極の単身赴任は戦場へ向かう兵隊さんなのだと、帰らない可能性を多分に持った赴任だったのだと思い知った。
もっと昔はアレクサンダー大王やローマ帝国や十字軍など、遠征して、あるいは彼の地で新しく家族を作り住み着いて行くことが征服となった。
現在は、女性の兵隊さんもいる。

中東はずっと紛争が絶えない。
亡夫は「あの地域では戦争が大きな産業で、上は王様から下々まで戦争で食べている人が多いから、なかなか紛争はなくならないと思う」と言っていた。
宮家氏もテレビで「語弊、誤解を恐れずに言えば、ISにとりテロはビジネス」と発言されているのを見た気がする。

そんな今、平和ボケをしてはいられない。
集団的自衛権や憲法9条などについて、主権者として、母として妻として家族としての覚悟はあるか?
訪れれば、そこに暮らす人達が悪い人とは思えないのだが、近隣の国々とも話し合って渡り合う人間力が問われている自分、と徒然に思う今日この頃だ。

いつかは再訪したいヨルダンの安寧を祈る。

老母の手作り
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昨日の雨で綺麗な富士見
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ホテルローヤル [思い出]

直木賞の発表のニュースで、釧路の話を書いた女流作家がインタビューを受けていた。
文学には疎いが、原田康子さんの「挽歌」を思い出し読んでみる事にした。

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父の転勤で幼稚園から中2の1学期まで釧路で育った。(1954?ー1963)
まだ子供で何も分からなかったが、当時、原田康子さんの「挽歌」がベストセラーになったようだった。
母が新釧路川の第2水門だか第4水門だかまでハイキングしようと、子供達とおにぎりやパンを持って出かけた記憶がある。
学校の遠足でも、同じ辺りへ行くのだが、どんなに注意を受けていても必ず湿原にハマる生徒がいたものだった。

長じて、高校の文学少女の友人に勧められ「挽歌」を読んだ。
人の気持ちに鈍い私が随分背伸びしていた。

その後、1970年、1977年。2010年に釧路を再訪している。
私にとっては自分の基礎が作られた大切な思い出の土地だ。
そんなこんなの色々な想いが吹き出して来た。

7本の短編からなるストーリー自体は上手に書けているようだが、いかにもありそうだった。
しかし、書き出しの文「四月、路肩の緑が芽吹き始めた。」から頭の中はよみがえり出す。
そうそう、昔は舗装道路が少なく雪解けでぬかるんだ泥んこ道をゴム長はいて登校したっけ。
馬橇、馬糞、、、
「ジェーン・エア」も「挽歌」も書き出しの文で引き込まれた?

本から離れて妄想が次々膨らむ。

釧路らしい言葉にも出会い、懐かしかった。
あたる(もらえる)
出面取り(日払いの肉体労働)
等々
ゴミをなげる(捨てる)とか あずましくない(落ち着かない?)なんてあったし。
色々な人達を思い出す。

大人になって思い起こせば、さまざまな事に合点が行く。
「ヤスダの森のベコの糞、夕べは暗くて踏んじゃった〜」は麦畑の歌だったかもしれないし、幼稚園の先生の事や、九州から転勤したのに女が追っかけて来た人や、ラーメン屋の駆け落ち話等々。

ラブホテルのロケーションのせいか、東京で暮らしてると忘れてしまっていた「まちはずれ」の感覚を思い出した。
私は釧路のまちはずれに暮らしていた。
校庭から先阿寒の山までずっと湿原、国道も大楽毛までノンストップ!
「ルート66」とか「遠くへ行きたい」とか流行った。
ホテルローヤルは多分釧網線沿いのまちはずれにあるはず。

内地はすべての土地が管理されているが、北海道には何も使われていない空き地が多くある。
垣根や塀が少ない。etc,,,

妄想ばかりが膨らみ、ストーリーは上の空。
「星を見ていた」が同年代のせいか身につまされた。
同級生の一人であっても不思議ではないかもと思った。

夏の数日、次々と想い出サーフィンにはまった。
思えば長く生きたものだ。

高尾山行 [思い出]

孫に誘われて、n十年ぶりに高尾山へ行った。
GWに入り、お天気も良く久しぶりにハイキング気分を味わった。

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下の子が2才の誕生日を迎え、幼稚園児だった上の子と3人でスタンプラリーのチラシに釣られて出かけ始めたのだった。
「遭難はしないと思うけれど・・・」と一応実家だけには連絡し、新宿の雑踏が
電車を降りてもそのまま続き、リフト乗り場の行列中には「オシッコ!」と。
左右に一人ずつ子供を抱えてペアリフトへ乗り、上へ着いた。
薬王院から上は、下の子を背負い「頂上に着いたらアイスでもジュースでも欲しいものは何でも買ってあげるから」と言って、上の子を歩かせての頂上だった。
下りはオットットット!とアブナイながらも皆自力で降りた。
お猿を見てから背負うと下の子はスヤスヤ〜〜
何とか無事帰宅できた。お転婆な母親だった。

久しぶりの高尾山はあっけなく頂上に着いてしまった。
"圏央道反対"の立て看とか、ミシュランの☆が付いたとか、も遥か昔の話?
上から見れば圏央道がきれいに運用されている。
山道もトイレも猿園も整備されている。

夫が帰国してからは、陣場山に登り、景信山の野草の天ぷらとなめこ汁を目指して歩き、
春に秋にと通った高尾山も子供の成長と共にいつしか遠ざかっていた。
孫と一緒に出かける事になるなんて、なんて素敵!

すみれを見つけた。マムシ草も見かけ懐かしかった。

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祈り [思い出]

アルジェリアでのテロに巻き込まれた日本人達が全員帰国した。
生きて帰った方、亡くなった方、それぞれお疲れ様でした。さぞや無念であった事でしょう。

30年近く前、夫がヨルダンに単身赴任していた事を思い出していた。
ベイルート市内が4分割されていたすぐ後だったし、イラン・イラク戦争中で、アカバ港に陸揚げされた物資をヨルダン国内をコンボイトラックで運んでイラクへ入れていた。
行き道は道路が傷んで波打っていたが、帰り道は平らな舗装のままだった。
ガソリンはマメに給油して備え、何処から攻められたら何処へ逃げると頭の隅で考えていたようだった。
誰にも話した事はなかったが、私は夫が帰ってこない可能性について0ではないと、どこかで覚悟していた。当時はハイジャックなどもあった。
子供の幼稚園にあった澤地久枝さんの「滄海よ眠れ」を読み、究極の単身赴任は戦場へ赴く兵隊さんだと思った。
イラクのクウェート侵攻で人質になった方達もいた。

今度のアルジェリアでのテロで変わっていないと思い知った。
日本人は宗教が無く中東では嫌われていないと聞いていたが、排他的なテロリストに理性は通じないようだ。

自分に何が出来るか?
まずは震災の時と同様、日々の果たすべき事をしっかり努めて行く事だ。
そして、少しでもいいから気になる事を考えよう、それが祈りの形となるのならその様に。
忘れてしまわない様に粘り強く。

初詣に小さい者達の将来が希望に満ち平和で穏やかになる様明治神宮へ参拝した

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映画 [思い出]

先日の事だが、誕生日プレゼントに「Always3丁目の夕日'64」鑑賞券を頂き、一人で渋谷へ出かけた。

席に着き予告編が始まった。
エエッ!StarWars が3Dで蘇る?
特撮の迫力は? 天国から見ているかしら?
思わず胸を突かれた。

そして本編は、懐かしい東京オリンピックの頃の暮らし振り、
泣き笑いで48年前を思い出していた。
私は、中学3年生だった。

結婚してから夫の読むビッグコミック・オリジナルの西岸良平さんの漫画「三丁目の夕日」を2週おきに読んでいた。
既にその頃、懐メロになっていたのだが…

等々力三丁目に住む我が家では、駅前の等々力モーターズが鈴木オートとかぶって見えていたのだった。
そんなこんなの色々が思い出されて、ハンカチで何度も目をこすっていた。

銀行でもお誕生日祝いに梅干しをもらい、良い誕生日祝いとなった。

皆さん、ありがとう!


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