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So Long,Steve Jobs [思い出]

昨夜、韓国のテレビニュースの時間に、Jobs氏の訃報とSAMSUNGでの様子が報道されていた。
これにより、彼が亡くなった事を知った。
まず思ったのは、「神様は良い人から順にお召しになる」と言う事だった。
こぎんさんも、Jobs氏もそして亡夫も、還暦を越えられなかった。
チョット泣けて来た。

1972年にTSS端末からBASICを使い始めて、BillGates氏とはその時からのお付き合いだが、
Appleの製品には、ご縁が薄く、ipod、ipadからだ。
でもJobs氏はずっと気になる存在だった。

大型汎用電算機を触り、子育てで引っ込んでいる間に世の中はPCになっていた。
夫が開業する時に、日影計算等のソフトを使うためPCを導入した。
この時に、MacではなくDOSのNECのPC-98を入れた。
経理のオバサンとしてLotusと一太郎から始めた。
この時に、Macにしていたら、どうだったろう?

その後、Windows95以来のユーザーとなり、Windows はアメリカ人と日本人のモーレツ社員が使うPCでMacはフランス人と中国人が使うPCかな?なんて思っていた時もあったりした。

でも、その後のJobs氏の仕事は、本物のCreaterとしての生き方を貫いたものだった。
素晴らしく魅力的な人物だったろうと思われる。
ご冥福を祈る。

サイモン(建築)とガーファンクル(数学)の
So Long,Frank Lloyd Wright を贈ろう!






思い出す事(年の終わりに) [思い出]

この1年、キルトの時間が思い出を振り返る時間になった事がありがたかった。心より感謝!

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昔の見覚えのないネクタイもあったが、愛用したネクタイは懐かしい思い出が甦る。
時系列に時計回りにレイアウトした。
撚れたり、赤ペンや麺の汁はねやカレーのシミや顎の脂まで、付けたまま縫い付けてしまった。
クリーニングも考えたが、母の「仕上げてしまいなさい。仕上げてしまえば気にならないで見られるから」の言葉に、急ぎ仕事を進めた。

十字型に配した赤いネクタイは、その時々の勝負ネクタイだ。
6時のネクタイは、独立する時に、まだ、有楽町にあった都庁に事務所登録の申請に出かけた時に着けていた。
新宿への引っ越し準備なのか廊下には書類の入った段ボールが積み上げられていた。
木と紙で造られた日本の建物をモデルにコンクリートとガラスで造られた建築だと説明を受けた。
少しの不安と大きな希望があり、夫の後ろからついて行った。
9時のネクタイは、事務所が忙しかった頃、入札のたびに着けていた。
とても神経質になり、気持ちが急上昇と急降下を繰り返し、アルコールが必要だった。
12時のネクタイは、派手過ぎを抑えて落ち着いた感じにしたかったようだが、これで終わりになってしまった。

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最初のネクタイは、お見合いした時に着けていた記憶がある。
「ブランド品って成金趣味だと思っているでしょ?」
「確かに、センスを磨いてたとえ100円であっても自分に似合うモノを見つけるのがベストだけど、それには時間がかかるの。ブランド品はセカンドベストだけれど、お客様に失礼にならないし、探す時間もかからず、気にしないで仕事ができる。だから、使う。」
こんな会話を思い出したのは縫い始めた2月頃だった。
当時は、「ピーコック革命」中で、ネクタイの幅が広かった。
中心のサークル布も、黒モワレのピーコックネクタイを解いて広げて裁断した。
2本目のトリコロールは、紫がかったピンクのシャツに良く似合っていた。
スーツは最後までピアッテリだった。
・・・ ・・・ キリが無い。
私が亡くなる時に、お棺に掛けてもらい、一緒に昇天する予定だ。

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家族との記念写真は、グリーン系のネクタイが多かった気がするが、学校行事の時しか機会が無かったから?


先日、香川照之さんが松田優作さんの「ラストデイズ」に付き合う番組で、奥様の松田美由紀さんが「人間、どんな形でもひとつ”愛”があれば、それだけで一生やって行ける」とおっしゃっていたが、その通りだと思う。
その愛を求めて懸命に生き、幸せになっていくのだ。現在の幸福に感謝!

今年は還暦を迎え、北海道・イタリア・オランダ・北京とたくさん旅行ができた。
一時は母が、どこかへ行ってしまうのかと心配したが、又元気になった。
最初で最後のパッチワークも完成できた。
振り返れば、良い1年だった。
さあ、来年はお婆ちゃんになる!


メモリアル・キルトの完成 [思い出]

今年の初めから取り掛かっていたパッチワークが、やっと完成した。

夫は今でいう「断捨離」の良い人で、ネクタイもパッと捨てていた。
貧乏症の私は「なんてきれいな小紋柄なの」と思って、こっそり屑籠から拾って貯めていた。

夫の死後、そんなネクタイが一袋残された。
小紋のプリント柄が多いので、パッチワークになりそうだった。

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いつかは作品にと思っていたが、なかなか手が付かなかった。
昨年末、仕事がクビになり時間ができたので、「今、取り掛からなければ、目も見えなくなる」と思い立った。
私の生涯、最初で最後のパッチワークが始まった。

前々から母に相談していたので、アイデアはもらっていた。
お正月に、相談に行き、色々教えてもらった。
まずは、土台となる生地選び、生成りの無地でも良いが、勧めてくれたのは白地に細かな黒のランダム模様、合わせてみると、確かにgood!
同じような布を探しに、成人の日に「ユザワヤ」へ出かけた。
探し当てたのは、変形チェックで、これで始めた。後になってこれが幸いした。
母は、元気で冴えていて、お雛様のパッチワークをしたり、お人形のお手玉を作ったりしていた。
しかし、今思うとその後の予感があったのか、「大きな作品だから、キルト芯のはぎ方も教えておかないとね」と言って、「1cm重ねて・・・・」と言っていた。
私は、まず土台布を手に入れて、配置をしなくてはと思っていたので、そんな先の事は、その時また、聞きに来るからと言って、いい加減に聞いていた悪い生徒だった。

180*150なので、大きな布の幅を接ぎ合せるだけでも大変!
これがチェックなので、目印ができる。
土台布ができ、レイアウトが決まり、家に居る日は毎日ネクタイを1本ずつ、アップリケ?して行った。
それでも、真っ直ぐに縫えない、針目が揃わない、時間はかかり、なかなか進まなかった。
2月は北海道へ行き、4月はイタリアへ行き、帰ると5月からは母の様子が???
実家に通い、泊まったり、デイケアにお願いしたり、・・・その間にタロウも大往生した。
6月からは、ホームに入居した母を兄弟3人で交替で毎日訪問した。
やっと6月13日にネクタイが全部付いた。

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それから、キルティングが始まる。
キルト芯は、ネットで探したら大きな物が見つかり、巾を接ぐ必要はなかった。
裏も、やはり土台布の共布がよさそうだと気が付き、また、ユザワヤへ走った。
ロールの最後が残っていた。良かった!

表と裏を一体化するためのキルトだと理解し、優しい直線だけで計画した。
まず、できる範囲で落としキルトを1日1本始めた。
回りができると、ぷくっとしてきた。アップリケのブサイクが目立たなくなる。
母の口癖「仕上げてしまいなさい!仕上げてみれば見られるようになるものよ」何度も思い出した。

いよいよ、地縫いのキルティングとなった。
これが、夏に暑い!テーブル上に広げ、枠をはめ、重しを載せ、それでも垂れてくる膝が暑く、汗だくになった。
しばらく休んだ時もあった。9月にはオランダへ行った。
変形チェック柄のお陰で、キルティングの針目の不揃いも、くねくね曲がっていても、分からないのだ。

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何とか一巡し、回りをバイアスでくるんだ時には既に10月になっていた。
母に見せにホームに行ったら、ボンボン作りに追われながら「やったね!」と言ってくれた。

やっと片づけて、畳屋さん・経師屋さんに入ってもらった。
11月にこっそり北京へ行ったら、帰宅後すぐに娘が里帰りする事になった。
12/23、一時帰宅中の今がチャンス、と吊り布を付けて棒を通して撮影した。
一年がかりで、遂に完成!


ミモザ [思い出]

ご近所のミモザアカシアがあちこちで毎年どんどん成長している。
どの木も花盛りとなった。
寒い日が続くが、黄色が辺りを明るくしてくれる。

1983年、こんなにミモザをご近所で見なかった頃、夫の赴任先のヨルダンの地方都市で、幹線道路の並木に満開のミモザアカシアが黄色く続いていた事を思い出した。

やっと古い写真を見つけ出し、スキャナで読み込んでみた。


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お天気の良かった日のご近所のミモザ
携帯のカメラで、手ぶれしてました。

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誕生日 [思い出]

誕生日を迎えた。
昨年は子年で夫達の学年が還暦を迎えた。
私は早生まれなのだが、今年は私達の学年の丑年が還暦を迎える。団塊最後の学年として、皆アラ還。
思えば長く生きてきたものだ。あっという間だった気がする。
50年前の事も、30年前の事も必要な時には思い出す。

ブログでお馴染みのこぎんさんが小樽の旅をなさっていて、北海道を思い出した。
父の転勤で、私は幼稚園から中学校の途中まで北海道の釧路という町の街外れで暮らした。
校庭から根釧原野(今では釧路湿原と呼ぶ)の向こうに阿寒の山が見えていた。
明治維新になり鳥取藩士が入植した地で、鳥取神社があり、卒業した鳥取小学校は在籍した時にすでに70周年を迎えたので、現在は120周年くらいになるはず。
砂っぱらを抜け海沿いの根室本線を渡りハマナスのブッシュを抜けると、浜は太平洋、東へ向かって行けばアメリカに着くと思っていた。
霧笛の灯台があり、昆布を拾った事もあった。・・・etc.

ささやかなお誕生日ケーキ(イチゴのショートケーキのつもりで買ったのだが、切ってみたらスポンジではなくシフォンケーキだった)に点灯して食べた。

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思いがけず娘がグリーン系の春色のストール?をプレゼントしてくれた。
心遣いが嬉しかった。ありがとう!親よりよほど気が利くね。
早速明日から着用予定。

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さて、これから20年は生きる予定で残りの人生をどのように過ごして行こうかと、ボンヤリ考える今日この頃。
いつまで経っても増えるばかりの「行きたい所リスト」や「やりたい事リスト」、これらと体力知力金力との折り合いをつけながら、心穏やかに平安の暮らしが送りたいものだ。
誕生日に、来し方行く末をチョット思い、日々、心掛けていれば、いつかソリューション?は降りてくるものと自分に言い聞かせている。

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