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太平洋炭鉱 [日記・雑感]

昨夜「ガイヤの夜明け」でベトナムで活躍する釧路コールマインの同世代の方達の活躍を見た。太平洋炭鉱が閉山するというニュースを随分前に聞き、これで日本の炭鉱も最後かと思っていたが、同世代の炭鉱夫(こう呼んでは失礼かもしれないが)の人達がまだ掘り続けていたのだ。
50年近くも前に釧路で暮らしていた時には、筑豊でも常磐でも夕張などでも炭鉱があった。釧路では海底炭を深く掘っていた。三井三池争議があり、常磐ハワイアンセンターができ、筑豊から北海道の開拓村へ移った人達の映画もあった。水俣病もあった。
父の転勤で北海道から九州へ移った時に、大牟田で三井東圧の煙突を見て、「ああ、学校で習ったコンビナートって三井東圧の事だったのか」と思った。宮崎県の化学工業って旭化成の事だったし、ブルートレインから見た瀬戸内海沿岸の徳山では、出光の煙突が立っていた。設備投資という言葉も、理解してみれば、工場の増設の事だった。
当時釧路には臨港鉄道という軌道があり、それに乗せてもらうのはとても楽しかった。自分の知らない釧路が見えたからだ。霧笛灯台の下で昆布が拾えたり、少し高くなった所から春採湖が見えたり?、お蕎麦屋さんがあったり、石炭運搬用の軌道だったのだ。なにしろ、幣舞橋を渡った南大通りからは、釧路の文化の高い領域だったのだ。日銀があり、市役所などの行政施設や、美術館などの文化施設などが丘の上にあった。
街外れのまっ平らな釧路湿原の入り口の放水路の傍の自分の住む世界とは違う街だった。

斜陽と言われて久しいが、日本の技術が役に立つ所がある!この道ん十年のマイナーとしての誇りを感じて、嬉しく心からの尊敬の念を抱いた。そして、私は何をしてきたのだろう?チョット切ない。

マグロの漁獲高の制限のニュースもあり、当時の日ソ サケ・マス漁業交渉と同じ様だ。半減・半減となって行ったように記憶している。

思い出話となった。


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炭鉱つながりですね。
わたしの親父は筑豊の炭鉱で働いていました。
自宅の風呂は石炭風呂で長い煙突があり、火を起こすのは私の役目でした。
by (2007-01-24 14:46) 

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