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沢田教一展 [巡礼]

沢田教一展へ行ってきた。

ベトナムだけでなく青森の写真もあり、当時の北の浜や空の空気感が懐かしかった。
ふと、亡くなられたこぎんさんを思い出した。
ベトナムは、去年秋のダナン・フエ・ホイアン旅行の後だったので、フエの王宮の攻防など「彼処だ!」と思った。
そして、弾の跡が残る壁と焼けてしまって原っぱになった場所を思い出していた。
ヘリコプターの編隊の写真があったが、特等席で撮っている!


今は中東の難民さんだが、インドシナ難民(ボートだったり陸路だったり)となり避難先で勉強し、しっかり仕事をして、リタイア後にベトナムへ帰国する人達もいるようだ。
一世代30年の時間が進んだ。
日本の私達は敗戦国の戦争を知らない子供達だが今や高齢者群となり、ベトナムは勝った戦争を知らない子供達がちょうど社会の中堅となって若い人達が多く明るく成長している。
30年前の日本も元気に見えた事だろう。
10年近く前、ホーチミン(サイゴン)へ行った時より一段と発展している。

出口のグッズ売り場で、近藤紘一氏の本が売られていた。
1986年頃彼の著作を読み自分の中で、ニュースが現代史になった事を実感したものだった。
年を取った。

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昨年、奥様のサタさんが、ホーチミン(サイゴン)を再訪なさったようだが、私も中東が落ち着いてお婆さんが一人でヨルダンへ出かけられる平和な日が来たら、行ってみよう。


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「足跡展」 [巡礼]

事務所OBによる5年祭として、亡夫の「足跡展」を、元スタッフ達が開いて下さった。

3月下旬に予定していたのだが、東日本大震災が起こり急遽延期した。
印刷工場だった場所をギャラリーにした会場のご好意で、4月に開催できて本当に良かった。
ほぼ1年間、手弁当で準備してくれたスタッフ達には、心から感謝したい。

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「事務所OBによる5年祭」、スタッフ達も東京で事務所を開いている人、地方で開業している人、事務所勤めの人など色々だが、たくましく成長して頼もしい仕事振りが、何よりの供養となった。
みな、自分なりに建築を頑張っている。
震災の後のミーティングで、日本を復興する想いが流れ、延期日程を決めた。

クライアント関係、小・中・高・大学時代のお友達、丹下事務所時代の仕事仲間、知人、親戚など多くの方が来て下さった。
まだ現役でお偉く、お忙しい方も時間を割いていらして下さった。
心より御礼申し上げます。

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「作品が残っていて良いですね」と言って下さる方が多かった。
久しぶりの方や、あまり話をした事のない方などとも、お話ができたりした。
懐かしく語って下さる方もいらした。
「弔い」は人間だけがする事で、故人の為と言うより故人を偲んで今生きている人がより良く生きる為にある。
”スタッフ達をどうぞよろしくお願い致します”だ。
メッセージボードは来場者の写真(メッセージ入り)で最終日までに、オーバーフローした。

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師に恵まれ、友に恵まれ、スタッフに恵まれ、これを人は人徳と呼ぶのだろうか?
素晴らしい人だった、その誇りを大切に生きてゆこう!

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北京行(温故知新) [巡礼]

フートン(胡同)へ行った。
観光客向けに人力車が用意されていた。

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向こうは鐘楼(時の鐘を撞く)、もっと大きな鼓楼(太鼓で時を知らせる)が少し南にあった。

右手前は、共同トイレだ。共同トイレはあちこちにあった。
水も電気も各戸に引いてあったが、トイレは長屋で共有しているらしい。

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路地のような通りの両脇は、四合院という住宅だ。

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その中の一軒をお訪ねする観光コースとなっていた。
中庭があり、棗などの木がある。

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住宅も調度も清朝時代の物だそうだ。

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市内の集合住宅では、暖房は北京市が供給するスチーム暖房で、エアコンは夏の冷房用との事だった。

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新しい北京も垣間見た


福井・金沢の旅(北陸先端大) [巡礼]

いよいよこの旅の本来のミッション、北陸先端大学院大学への訪問だ。

北陸先端科学技術大学院大学へのリンクはこちら
http://www.jaist.ac.jp/index-j2.shtml

野町駅から北陸鉄道に乗る。
始発から2両編成のかわいい単線だ。1両に乗客が数人しかいない。
市街地を抜け、山裾を鶴来へ向かって走る。
途中、4回ほど、上下線の交換駅があった。

沿線は、ほとんど刈り取りの終わった稲田が続く。人家が絶えない。
鶴来まで15駅30分の道程だった。

「もう見えてきている!」、気が付くと立ち上がって車両の反対側の窓に飛びついていた。
2駅手前で、丘の上に校舎群が現れた。すでにウルウルだった。

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「鶴来」の駅は古く、鶴来の街は大きかった。
2駅先が終点の「加賀一の宮」だ。

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駅前からシャトルバスで大学へ向かった。

伺った当日は、学位授与式の日だったようだ。
そうとは知らず、忙しい中、時間を割いて施設部の方が案内して下さった。

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初代学長・故慶伊先生の建学の精神「開かれた大学」という事で、どこも開放され、いくらでも写真を撮ってよいという事だったが、思いが強すぎて?外からの写真しか写せなかった。

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図書室は開架式、特別図書室の「解体新書」を見せて頂いた。
オランダ語を学び、新しい知識・概念を日本語にした当時の若者達の手書きの和綴じ本だった。
T字ユニット・コア(両翼に教授・助教授、中央に学生)コンセプトの教室を拝見した。
若い方達が、こちらで新しい種を見つけ、育っていくよう祈らずにはいられなかった。
施設部では、知的活動の生産性向上のためサポートに、腐心なさっているようだった。

屋上を開けて眺望を見せて下さった。
白山の山々から手取川が流れ、百万石の平野が広がっていた。
ここから山が始まるというロケーションにその大学はあった。
20年以上昔、こちらを訪れた時には、造成中だった。
再び、完成・運用・活動しているこの地に立つ事ができ、胸がいっぱいになった。

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夫が基本設計(伽藍配置のようなもの)の仕事を頂き、タイプを手伝った見覚えのある分厚い報告書を開いて施設部の方が説明して下さった。
もう20年経つが、校舎内外とも手入れがよく、きれいに使って下さっていた。
これからの一人で生きる間、誇りを持って暮らして行ける。
遺された作品の地へ立つ巡礼の旅ができて、感謝!



室生寺へ [巡礼]

昼食の後、室生寺へ回った。
休日には長谷寺から室生寺まで奈良交通のバスが出ている事も、チェックしてあり、与喜浦バス停まで15分ほど歩いた。
ピストンバスなので、ノンストップですいている道路を正味30分位で室生寺へ着いた。
里にある長谷寺と違い、室生寺はだいぶ山に入った所にあった。

川が流れていて、これが結界になり太鼓橋を渡ってゆく。
橋本屋というのは土門拳氏の定宿だったそうだ。

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やって来ました「女人高野室生寺」・・・これは、桂昌院の寄付により女性にもお参りが許された寺院という事だった。
ちょうど、石楠花祭りで、花が盛りを迎えていた。

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ロレーヌ・アルザスの旅(まとめ) [巡礼]

ストラスブールからドイツへ入る一行と分かれて、TGVでパリへ戻り帰国した。
ストラスブール駅は、第2次世界大戦で破壊されずにあったクラシックな駅舎の上から透明なシェルのカバーをかけてあった。市民の間でも賛否両論とか。

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主目的のお茶会は大盛会で何よりだった。


旅の間に思った事を、記してみる。


・町並み
訪れたナンシー、コルマール、ストラスブールはいずれも旧市街と呼ばれる城壁と門(運河と川)に囲まれた中世からの町並みが残り、それを守りながら暮らしてた。
自動車ができる前からの街路は、道幅が狭かったり、地形に合わせて曲がっていたりしている。
その通りに沿って、3階建て以上の建物が並び、アーチの入り口を入ると中庭が設けてある。
写真を撮ろうにも、後ろへ引く余地がなく、古いデジカメでは全体が収まらない事もあった。
路面電車が利用されていて、街なかに自動車の乗り入れが少なく、渋滞は全く見られず静かな感じがした。
それぞれ、一時代を画した歴史があるようだ。
昔の日本や、ベトナムのバイク集団、中国の大気汚染の事を考えると、生物の密度の高いアジアのエネルギーとは違う、歴史と文化に誇りを持った静かな持続力のエネルギーを感じる。

お食事もおいしく、ワインも美味しく、デザートも美味しく、さすが農業国!だった。

ナンシーの路面電車

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コルマールの乗り合いバス

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ストラスブールの路面電車

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・宗教について
大都市の大聖堂ではなく、サン・ディエからコルマールへの山間の道でも、村々で一番大きな建物は教会だった。
今でも熱心なカソリック教徒が多いのかは分からないが、日本でいえば津々浦々、こちらでは村々まで、この2000年間、キリスト教がしっかり人の気持ちを掴んでいたようだ。暮らすに必要である以上の余剰の富の生産があれば、建築・絵画・彫刻・・・の形で、教会に捧げられてきたようだ。それらが残っている。
もちろん、権力とタイアップでの相乗効果もあろうが、人の心を掴むその魅力って一体何なのだろう?
ほとんど無宗教(実家は真言宗で婚家は神道)の日本のオバサンは、不思議に思うのだ。

ユニークな真理を目指して、Rationalismが生まれScienceが育ったのだが・・・
日本や中国では算術・測量術にしか過ぎないのに、ScienceではMathematicsのLogicだったり、Geometoryだったりになるのだ。

25年以上も前、夫の赴任先のJordanに滞在したことがあり、その時にAjlun城へ行った。ヨルダン川の東側にあり十字軍の最前線だったようだ。高い丘の上に城があり、平時には城のふもとの周りで農耕していたであろう。ブドウ畑もあったような記憶がする。
フランスのこの辺りの青少年たちも、笛の音に誘われて?家族と水盃でクルセーダとしてあの中東へ赴いたのかと思った。

そしてストラスブールでのグーテンベルクや世界最初のプロテスタント教会など、宗教改革の頃もさぞかし思想の最先端を行っていた街であった事を偲ばせる諸々に接し、眠かった世界史の授業でも耳に残るほどのすごい町なのだと思った。それに刺激されたイエズス会は、missionとして極東の日本にまで宣教師を遣わしたと習った。

中東の同じ地域から起こった同じ一神教であるキリスト教とイスラム教の確執が今の世界のリスクの一つなのだが。
一神教は現世利益だから強いのか?等々・・・ブツブツ


・仏独の間で
この辺りは、フランスとドイツが取り合ってきた地域、「最後の授業」byドーテのお話の舞台になっている。
ボージェ山脈の山麓ワイン街道から東方のライン川の向こうの黒い森を見渡すと、ドイツがどのようにして侵攻して来て展開し、街を一つ一つ落として行ったのかと思われる。陸軍がタンクで来て、最後は歩兵が1軒1軒つぶして行ったのか?織田信長の頃の戦とあまり変わりないのかもしれないなどと。
駅の表示も、フランス語・英語・ドイツ語表記となっていた。
現在はEUとなったが、フランスはフランス、ベルギーはベルギー、スイスはスイス、ドイツはドイツなのだ。

などなど、とりとめのない事が頭をかすめて行った。

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仲間に入れて頂いたお茶の一行も、皆さん明るく楽しい方ばかりの素晴らしい女性達で、学ぶ事の多い旅だった。
家族の協力のもと、この旅が許された事に、心からの感謝をしたい。
長々とお付き合い頂いた旅も本編はこれでおしまいとする。

次は、ミーハー的な旅のおまけを・・・

ロレーヌ・アルザスの旅(ストラスブール) [巡礼]

ボージュ山脈に沿ってブドウ畑が広がり、ワイン街道が通っていた。
東方のライン川の向こうは、シュバルツバルド(黒森)が見えた。
亡夫とジュッセルドルフからバーゼルまで旅をした事などが、思い出された。
はるか、あの森までの間で、ドイツとフランスが何度となく領地を取り合ってきたところなのだ。

リクビルの街で昼食となり、近くのワイナリーを見学した。

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アルザスワインは、肩のない瓶に入り白が多くブドウの種類で呼ばれる。スパークリングから貴腐ワインまで、色々試飲した。食事に合うリースリングと、少し冷やして飲むピノ・ノワールの赤をお土産にした。
ブドウをすぐに絞らないで、1週間ほど置いてから絞ると赤になるそうな。

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その後、憧れのストラスブールへ入った。
1975年にユーレイルでパリからフランクフルトへ移動したが、メッツ経由だったので、途中下車できなかったのだ。

現在はEU議会が置かれ、大学の街だが、確かに歴史のある交通の要衝の地であるようだ。
素晴らしい大聖堂を中心に(ステンドグラスは第二次大戦中は住民の手で地下の鉱山跡に避難してあったという)南北(ライン川の上流/下流)東西(仏/独)の十字路に位置している。
マリー・アントワネットがウィーンからパリへお越し入れの時も、この町のPALAIS ROHANに滞在したとか。

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旧市街は、運河と川に囲まれていて、一筆書き問題の「ケーニヒスベルクの橋」を彷彿とさせる。

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路面電車と自転車が主な移動手段で、バスや乗用車で移動するのは大変な事だった。

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商工会議所の前には、グーテンベルグの銅像があり、旧市街には最初のプロテスタント教会もあった。
宗教改革でも、色々あった事だろう。

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ロレーヌ・アルザスの旅(コルマール) [巡礼]

お茶会を終えて、ホッとし、コルマールへ移動した。
この町は、宮崎駿監督が「ハウルの動く城」の構想中に、スケッチ旅行に訪れたところだった。

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古い街並みがあり、木組みが壁の外へ現れている3階4階建ての家々が続いた。

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教会の屋根にはコウノトリの巣がかかっていて、毎年来るのだそうだ。

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アメリカの独立を祝って「自由の女神」がフランスから送られたが、その作者がこの町の出身だった。
有名な宗教画がウンターリンデン美術館(写真は中庭)に展示してあった。

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本場で買い求めたミシュランの道路地図アルザス・ロレーヌ版の表紙で、地図を示す。

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台北行 その3 [巡礼]

翌日は、まず、お土産を買いに出かけた。
乾物屋さんで、からすみを一腹購入した。(自宅用)
前に来た時に、教えてもらったお店で、塩加減がうすく、ソフトで生っぽい。
それと、金華ハムの蜂蜜漬け、切り落としを購入した。

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次に、隣のお茶屋さんで、リーズナブルなお値段の凍頂烏龍茶を12缶購入、気軽にほうじ茶のように飲んでもらえそう。

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お昼は、「鼎泰豊」で、エビ餃子・小籠包・肉まん・青菜炒め・牛肉スープ・台湾ビールのランチだった。
ヘッドホンとマイクを付けた若い人達が、キビキビ働き、スピーディに運んでいた。
まず、エビ餃子がサービスされて、美味しく食べていた。こそへ、小籠包がサービスされ、せっかくのデリケートなお味なのに、エビのパンチが効いていて、私の舌が馬鹿になってしまっているようだった。
飲茶だから仕方がないのかな?
青菜は空芯菜のようだった。相変わらず美味しかった。

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その後、スコールに遭った。

茶芸館で、ゆっくり2種のお茶を飲み(ちゃんとマイルドな方から淹れてくれた)、本屋をハシゴして、足ツボマッサージを体験した。

台北では、何でもスピーディで、ボンヤリおばさんは、うっかり上手に載せられて、あちらのペースでサービスを受け、お金を払うという図式になってしまう。
それでも足ツボマッサージはすごい!
足裏地図を見せてくれながら、痛い所が悪い所なのだが、私は「頭」「目」「胃腸」が悪いようだった。
揉み始めは何でもないのだが、だんだん痛くなり、ギャーと言うほど痛くなった。
「頭」は睡眠不足、「目」は老眼、「胃腸」は旅行に出て便秘していると言い当てられた。
それでも、終わった後は、足が軽くなり、靴を履いていないみたいだった。

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夕食は、「點水樓」で、再び小籠包・エビ焼売・東坡肉・ワンタンに挑戦した。
こちらのお店は、薄味ながら、お出汁がしっかりしているような気がした。

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いずれも、塩加減は薄味ながら、美味しく頂けた。
戦後50年以上経ち、大陸から渡ってきた人達が、粉食文化でサクセスストーリーを作ったのだろう。

この後は、そのままバタンキューだった。

台北行 その2 [巡礼]

基隆は、飛行機のなかった戦前には、内地との船便が発着する天然の良港だった。
基隆神社があったという丘(今は公園になっている)に登った。
日本海軍の艦隊が入港すると、台北から日本人が見物に来たそうな。
青年海軍将校 ナカソネヤスヒロ が台北の女学生に人気だったそうな。

右の方が外洋への湾口

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その帰途に、元祖パイナップルケーキのお菓子屋へ行ってみた。
すごい行列、エッ!何これ?
列に沿ってお店の中へ入ってみると、中秋の月餅を求める人だかりだった。
パイナップルケーキは、筆談の結果「完賣」だと分かり残念!

再び、高速バスで台北に戻った。
こちらのお菓子屋さんも、月餅の行列があったが、パイナップルケーキは買う事が出来た。
遠雷がなり、スコールが来た。

夜は、近くの夜市へ出かけた。
スイーツとご飯やさん

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マッサージをし、盛りだくさんの1日目が終了した。

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