八重桜 [日記・雑感]
今年も桜の季節が巡り、八重桜の頃となった。
熊本県ー大分県・・・・中央構造線での地震が収まらない。
3・11から5年で、次が来た。
心より、お見舞い申し上げます。
未だ大変な東北の方達の事も心が痛むが、自分にできる事は、毎日の自分の仕事を一生懸命にやっていく事なのだと心を新たにした。
50年も昔、父の八代転勤で訪れた地であるが、日奈久へ海水浴に行った時に断層が見えないかとキョロキョロしたが、釧路とは違って植生がぎっしりと草いきれで、露出岩面は見られなかった。
熊本城にも連れて行ってもらった。
地震で、あの石垣が崩れ落ちている。
西南の役の展示で、弟が「昔の人の血は黒かったの?」発言が忘れられない。 その前に釧路で、知床へ出かける前に「羅臼(ラオス)で戦争しているけど、大丈夫なの?」発言も思い出す。 父は釧路・八代から、石巻へ転勤し、何箇所か転勤の後、勿来へも転勤した。 港町ぶるーすを転勤節にしており、「み〜なと〜、釧路八代〜、石巻」と歌っていた。
東北の震災で被害を受けた地域、そして今度は、熊本地震、と父の任地の受難が続く。
1日も早く、地震が収まって、平穏な日々が戻りますよう祈ります。
熊本県ー大分県・・・・中央構造線での地震が収まらない。
3・11から5年で、次が来た。
心より、お見舞い申し上げます。
未だ大変な東北の方達の事も心が痛むが、自分にできる事は、毎日の自分の仕事を一生懸命にやっていく事なのだと心を新たにした。
50年も昔、父の八代転勤で訪れた地であるが、日奈久へ海水浴に行った時に断層が見えないかとキョロキョロしたが、釧路とは違って植生がぎっしりと草いきれで、露出岩面は見られなかった。
熊本城にも連れて行ってもらった。
地震で、あの石垣が崩れ落ちている。
西南の役の展示で、弟が「昔の人の血は黒かったの?」発言が忘れられない。 その前に釧路で、知床へ出かける前に「羅臼(ラオス)で戦争しているけど、大丈夫なの?」発言も思い出す。 父は釧路・八代から、石巻へ転勤し、何箇所か転勤の後、勿来へも転勤した。 港町ぶるーすを転勤節にしており、「み〜なと〜、釧路八代〜、石巻」と歌っていた。
東北の震災で被害を受けた地域、そして今度は、熊本地震、と父の任地の受難が続く。
1日も早く、地震が収まって、平穏な日々が戻りますよう祈ります。
静嘉堂文庫 [世田谷]
ラジオで静嘉堂文庫の館長さんが話しているのを聞き、友人と「茶の湯の美・煎茶の美」を見に行った。
久しぶりの静嘉堂文庫は、静かな別世界だった。
例の曜変天目茶碗や名物茶器「付藻茄子」など拝見した。
戦国の大名達や利休さんなどが、これらを手に取り、お茶を楽しんだらしい。
あるいは、恩賞となったのか?
道具を通して歴史が伝わってくる。
さらに今回は、煎茶道具も出ていて、面白かった。
急須が小さいような気がしたのは会場が広いからか?
お庭の梅も、静かに咲いていた。
ゆっくり時間が流れる土曜の午後だった。
久しぶりの静嘉堂文庫は、静かな別世界だった。
例の曜変天目茶碗や名物茶器「付藻茄子」など拝見した。
戦国の大名達や利休さんなどが、これらを手に取り、お茶を楽しんだらしい。
あるいは、恩賞となったのか?
道具を通して歴史が伝わってくる。
さらに今回は、煎茶道具も出ていて、面白かった。
急須が小さいような気がしたのは会場が広いからか?
お庭の梅も、静かに咲いていた。
ゆっくり時間が流れる土曜の午後だった。
スターウォーズ [思い出]
落ち着いてきたので、スターウォーズの最新作を見に出かけた。
特別な想い出がある。
夫と一緒に見た最初の映画がスターウォーズ第1作だった。
そして、27年後、酸素ボンベや吸引機を背負って最後に見たのもスターウォーズ第6作だった。
槍の代わりに鉛筆を持ったドン・キホーテの夫が夢中になった物語で、自宅はダースベーダーがモチーフとなっている。
今作品中でも繰り返される父と息子の関係が切ない。
闘病中も1〜6作を繰り返し再生していたが、いつもダースベーダーの
「ディア サン アイム ヨー ファーザー」のくだりで、涙を流していた。
伝わらないように思える息子への思いが無念だったろう。
10年経ち、誰の助けも借りず家出同然の形で自力で独立していった長男を天国から見て何を思うだろうか?泣けてくる。
ルーク・スカイウォーカーもハン・ソロもレイア姫も団塊の世代と共に、皆歳をとった。
Time goes on.
めそめそしていたら雪まで降り、落ち込んではいられない。
九品仏で見つけた蝋梅、香っていました。
寒気が入り冷え込んでいるが、日差しは明るくなってきている。
断捨離ついでにお手玉を作った。
楽しんで、今をしっかり生きよう!
特別な想い出がある。
夫と一緒に見た最初の映画がスターウォーズ第1作だった。
そして、27年後、酸素ボンベや吸引機を背負って最後に見たのもスターウォーズ第6作だった。
槍の代わりに鉛筆を持ったドン・キホーテの夫が夢中になった物語で、自宅はダースベーダーがモチーフとなっている。
今作品中でも繰り返される父と息子の関係が切ない。
闘病中も1〜6作を繰り返し再生していたが、いつもダースベーダーの
「ディア サン アイム ヨー ファーザー」のくだりで、涙を流していた。
伝わらないように思える息子への思いが無念だったろう。
10年経ち、誰の助けも借りず家出同然の形で自力で独立していった長男を天国から見て何を思うだろうか?泣けてくる。
ルーク・スカイウォーカーもハン・ソロもレイア姫も団塊の世代と共に、皆歳をとった。
Time goes on.
めそめそしていたら雪まで降り、落ち込んではいられない。
九品仏で見つけた蝋梅、香っていました。
寒気が入り冷え込んでいるが、日差しは明るくなってきている。
断捨離ついでにお手玉を作った。
楽しんで、今をしっかり生きよう!
暖かなお正月 [日記・雑感]
あけましておめでとうございます。
サボりながらのブログも、あしかけ12年目となる。
今年も福寿康寧でしっかり生きて行こう。
今年は、明るい暖かなお正月を迎えられて良かった。
頂いた正月牡丹も元日に開花した。いつもありがとうございます。
大晦日には長男も帰京し、元日の大婆々の新年会には皆が揃った。
1月2日には妹と久しぶりに横浜へ出かけた。
夫の作品にご無沙汰を詫び、山下公園を散歩して、中華街へ。
すごい人混み、これも久しぶり。
妹が、アメリカ駐在時によく食べたという「香港麺」(海老ワンタンのワンタン麺)を同發で。
美味しかった。
1月4日は孫とお婿さんと高尾山へ
孫は、登りも下りも歌いながら踊りながらドンドン進んで行く。
登りは、婆はアセアセとついて行くのに必死、お天気が良く汗をかいたが、頂上からの眺めは最高だった。
山を下り、高尾山口駅前にできたお風呂でゆっくりして、帰宅した。
平常の暮らしに戻ったが、1/9には小学校の東京組で浅草寺へ初詣して、楽しく過ごした。
さあ、陽射しは明るくなって来ている。
戦時の中東やEUの難民、テロ、東アジアでの軍事バランスなど色々な問題が噴き出してきているが、今の所平和で穏やかな新年を感謝したい。
誰もが平安で暮らせる様、できる事は何でもして行こう。
昨秋ソウル行の後、50年ぶりのクラス会が釧路であり、北海道へ出かけたが、ブログ更新をサボってしまい、年が明けた。遅くならないうちに、備忘録に綴らねば。
サボりながらのブログも、あしかけ12年目となる。
今年も福寿康寧でしっかり生きて行こう。
今年は、明るい暖かなお正月を迎えられて良かった。
頂いた正月牡丹も元日に開花した。いつもありがとうございます。
大晦日には長男も帰京し、元日の大婆々の新年会には皆が揃った。
1月2日には妹と久しぶりに横浜へ出かけた。
夫の作品にご無沙汰を詫び、山下公園を散歩して、中華街へ。
すごい人混み、これも久しぶり。
妹が、アメリカ駐在時によく食べたという「香港麺」(海老ワンタンのワンタン麺)を同發で。
美味しかった。
1月4日は孫とお婿さんと高尾山へ
孫は、登りも下りも歌いながら踊りながらドンドン進んで行く。
登りは、婆はアセアセとついて行くのに必死、お天気が良く汗をかいたが、頂上からの眺めは最高だった。
山を下り、高尾山口駅前にできたお風呂でゆっくりして、帰宅した。
平常の暮らしに戻ったが、1/9には小学校の東京組で浅草寺へ初詣して、楽しく過ごした。
さあ、陽射しは明るくなって来ている。
戦時の中東やEUの難民、テロ、東アジアでの軍事バランスなど色々な問題が噴き出してきているが、今の所平和で穏やかな新年を感謝したい。
誰もが平安で暮らせる様、できる事は何でもして行こう。
昨秋ソウル行の後、50年ぶりのクラス会が釧路であり、北海道へ出かけたが、ブログ更新をサボってしまい、年が明けた。遅くならないうちに、備忘録に綴らねば。
釧路行(帰郷?) [思い出]
忘れないうちに、2015/10/21釧路市立鳥取小学校梅組クラス会へ出かけた事を記しておく。
50年ぶりの、少なくとも40年ぶりの再訪となった。
鳥取小学校は、国道の北へ移転し、跡地は新聞社の印刷工場?になっていた。
高学年を過ごした、敷地の端、丸彦側、PTAが落葉松を植林した。
ひまわり幼稚園
体育館と隣り合う幼稚園
体育館の裏からニニシベツ川を見る。鳥中の通学路の橋、その先にはスリバチ山があった。
ここに堰があり、沈殿と呼ばれる工業用水の取水口があった。
クラス会には、担任の先生もいらして、地元釧路だけでなく東京、札幌、道内、60人のクラスのうち、20人以上集まった。
翌日は、修学旅行の再現で、地元の同級生が阿寒から横断道路経由で弟子屈を回って下さった。
阿寒へ向かう
お庭が作ってあった。
阿寒湖畔、「まりも羊羹」は今でもあるのかしら?
釧路への帰途、細岡湿原展望台から湿原を眺める。
旧新釧路川の始まり
遠くに工場の煙突
釧路市内まなぼっと幣舞より
釧路は三大夕日スポットだとか
子供の頃、テーブル状に見える日高山脈に沈む夕日を飽かず眺めていたっけ。
翌朝、米町公園よりの眺め、この後、厚岸方面へ連れて行ってもらった。
厳島神社
太平洋炭鉱の辺り
目の前は太平洋、昆布森海岸西方、映画「ライアンの娘」を思い出していた。
昆布森海岸東方、子供の頃はこの先にアメリカがあると思っていた。干場が広がる。
厚岸湾、大黒島も見えたような気がした。担任の先生の出身地が浜中村・貰人(もうらいと)だと聞いた。
翌日、札幌で闘病している先輩をお見舞いして帰京した。
先生・級友・旧友の皆さん、ありがとうございました。
変わらない日差し、風の街でした。
人生、こんな事もあるとつくづく思い、そして、私は釧路で過ごした日々が自分の人間としての礎となっている事を再認識したのだった。
50年ぶりの、少なくとも40年ぶりの再訪となった。
鳥取小学校は、国道の北へ移転し、跡地は新聞社の印刷工場?になっていた。
高学年を過ごした、敷地の端、丸彦側、PTAが落葉松を植林した。
ひまわり幼稚園
体育館と隣り合う幼稚園
体育館の裏からニニシベツ川を見る。鳥中の通学路の橋、その先にはスリバチ山があった。
ここに堰があり、沈殿と呼ばれる工業用水の取水口があった。
クラス会には、担任の先生もいらして、地元釧路だけでなく東京、札幌、道内、60人のクラスのうち、20人以上集まった。
翌日は、修学旅行の再現で、地元の同級生が阿寒から横断道路経由で弟子屈を回って下さった。
阿寒へ向かう
お庭が作ってあった。
阿寒湖畔、「まりも羊羹」は今でもあるのかしら?
釧路への帰途、細岡湿原展望台から湿原を眺める。
旧新釧路川の始まり
遠くに工場の煙突
釧路市内まなぼっと幣舞より
釧路は三大夕日スポットだとか
子供の頃、テーブル状に見える日高山脈に沈む夕日を飽かず眺めていたっけ。
翌朝、米町公園よりの眺め、この後、厚岸方面へ連れて行ってもらった。
厳島神社
太平洋炭鉱の辺り
目の前は太平洋、昆布森海岸西方、映画「ライアンの娘」を思い出していた。
昆布森海岸東方、子供の頃はこの先にアメリカがあると思っていた。干場が広がる。
厚岸湾、大黒島も見えたような気がした。担任の先生の出身地が浜中村・貰人(もうらいと)だと聞いた。
翌日、札幌で闘病している先輩をお見舞いして帰京した。
先生・級友・旧友の皆さん、ありがとうございました。
変わらない日差し、風の街でした。
人生、こんな事もあるとつくづく思い、そして、私は釧路で過ごした日々が自分の人間としての礎となっている事を再認識したのだった。
ソウル行 [旅]
今年も、秋のソウルへ娘と孫に連れて行ってもらった。
お宿は弘大のK-POP好きが多い民宿ZZZIP-Guesthouseで、女主人のジナさんが娘と同年代で、お子供さん2人は保育園へ通っていた。
今回の旅では、世界遺産の水原華城へ行ってみようと思っていた。
鎌倉へ行くのに東京駅まで出ないで横浜から横須賀線をつかまえるように、最寄の合井駅から新道林へ出て、たくさんの親切なソウル市民に助けてもらって、水原行きに乗れた。
お忙しい時間に、皆さん、ありがとうございました。
何しろ、ハングルは読めず、音も分からず、スマホのgoogle翻訳だけが頼りという強心臓なのだ。
セマウル号にも乗ってみたいが、次回以降のお楽しみ!
水原へは道中の車窓景色は、横須賀線で鎌倉というより、京成線で成田山へ行く感じだった。
立派で大きな水原駅からタクシーで水原華城へ向かった。
正祖イ・サンが造ったお城で南北に八達門と長安門があり城壁がぐるっと巡っていた。
西側は、天然の地形を利用している。
柿食えば 鐘が鳴るなり 水原華城
18世紀の終わり頃に作られた華城だが、日本ではその頃にはすっかり落ち着いて山城の形式は取っていないはず。
二条城には厩もないと聞く、駕籠や徒歩が通常の移動手段の都市生活だったようだ。
常に清(中国)と国境を接してきた朝鮮では、華城や江華島など首都機能を移転できる場所を用意しておく必要があったようだ。
日本に比べ、中国との付き合い方はやはり一日の長がありそうだ。
長い李氏朝鮮時代だが、ハングルを作った世宗大帝と正祖イ・サンが良くドラマになっている。
日本でも、時代劇の大河ドラマは戦国時代か明治維新ものが多い。
イ・サン王様はいろんな役者さんが演っているが、いずれも誠を尽くし勉強家で国を大切に考える立派な人物の聖君であったようだ。
昌徳宮の秘苑の「宙合楼」の扁額の文字からも真面目な人柄が偲ばれた事を思い出した。
TSUTAYAでレンタルした「王の涙」のヒョンビンが一面だけであるが、らしくて好きだ。
日本では、太閤記の秀吉役者は出世し、信長役者がかっこ良すぎる。
どんなに超人的にかっこ良くても、最後に滅びる事で全てのつじつまを合わせてしまう。
閑話休題
日本も朝鮮も中国に比べると、スケールが小さい。
それぞれに、懸命に作ってきた歴史ではあるが、やはり空間的な広がりの大きさ、漢字を始め文化の歴史など中国への興味は尽きない。
お宿は弘大のK-POP好きが多い民宿ZZZIP-Guesthouseで、女主人のジナさんが娘と同年代で、お子供さん2人は保育園へ通っていた。
今回の旅では、世界遺産の水原華城へ行ってみようと思っていた。
鎌倉へ行くのに東京駅まで出ないで横浜から横須賀線をつかまえるように、最寄の合井駅から新道林へ出て、たくさんの親切なソウル市民に助けてもらって、水原行きに乗れた。
お忙しい時間に、皆さん、ありがとうございました。
何しろ、ハングルは読めず、音も分からず、スマホのgoogle翻訳だけが頼りという強心臓なのだ。
セマウル号にも乗ってみたいが、次回以降のお楽しみ!
水原へは道中の車窓景色は、横須賀線で鎌倉というより、京成線で成田山へ行く感じだった。
立派で大きな水原駅からタクシーで水原華城へ向かった。
正祖イ・サンが造ったお城で南北に八達門と長安門があり城壁がぐるっと巡っていた。
西側は、天然の地形を利用している。
柿食えば 鐘が鳴るなり 水原華城
18世紀の終わり頃に作られた華城だが、日本ではその頃にはすっかり落ち着いて山城の形式は取っていないはず。
二条城には厩もないと聞く、駕籠や徒歩が通常の移動手段の都市生活だったようだ。
常に清(中国)と国境を接してきた朝鮮では、華城や江華島など首都機能を移転できる場所を用意しておく必要があったようだ。
日本に比べ、中国との付き合い方はやはり一日の長がありそうだ。
長い李氏朝鮮時代だが、ハングルを作った世宗大帝と正祖イ・サンが良くドラマになっている。
日本でも、時代劇の大河ドラマは戦国時代か明治維新ものが多い。
イ・サン王様はいろんな役者さんが演っているが、いずれも誠を尽くし勉強家で国を大切に考える立派な人物の聖君であったようだ。
昌徳宮の秘苑の「宙合楼」の扁額の文字からも真面目な人柄が偲ばれた事を思い出した。
TSUTAYAでレンタルした「王の涙」のヒョンビンが一面だけであるが、らしくて好きだ。
日本では、太閤記の秀吉役者は出世し、信長役者がかっこ良すぎる。
どんなに超人的にかっこ良くても、最後に滅びる事で全てのつじつまを合わせてしまう。
閑話休題
日本も朝鮮も中国に比べると、スケールが小さい。
それぞれに、懸命に作ってきた歴史ではあるが、やはり空間的な広がりの大きさ、漢字を始め文化の歴史など中国への興味は尽きない。
長崎行(有田) [旅]
好天続きのシルバーウィークは金木犀の香りに包まれた。さて、続き
長崎では中国やヨーロッパとの交流を感じ、古今東西のリンクが面白かった。
白村江の戦い、元寇、秀吉の朝鮮出兵、と何度か歴史で習う朝鮮や大陸との摩擦と交流。
そして多くの渡来人によってもたらされた情報・技術、それを取り込んだ文化。
何と言っても九州は大陸に近い。
焼き物のエリアへ出かけた。
山坂の街は海から入る以外は、すぐに峠越えの道となる。
天領は思っていたより狭く、今の長崎県は諸藩に分かれていたらしい。
シーボルトの居所の鳴滝から螢茶屋を経て高速に乗り、一気に佐賀県を目指した。
まず波佐見へ レンガ造の四角い煙突がある。
やきもの公園でいろいろな窯を見学した。
棚田は彼岸花が咲き始め、稲穂が色づいて来ていた。
よくもこんなに石を積んで水を回し、と里山の秋に感心した。
遠くの方は、水田ではなく茶畑のようだった。嬉野茶もあったと思い出した。
有田へ入った。
秀吉の朝鮮出兵時に朝鮮から来た李参平が見つけたとされる、泉山磁石場へ行った。
解説板に「400年かけてひとつの山を焼き物に変えた」と言われるとあった。
白くサラサラの石だった。
ここから白磁が日本で焼けるようになったとか。
ひと山分の土が焼き物になり、日本だけでなく遠くヨーロッパにまで渡って行ったのだ。
「すごいことだねぇ〜」と息子と二人で感嘆!
昨年、ソウルの博物館で見た朝鮮靑花(白磁染付)とリンクした。
トンバ塀の通りをぶらぶら散策し、陶山神社や九州陶磁博物館などを見学し、アウトレットを冷やかし、レンガの煙突があちこちに建っている有田街歩きを楽しんだ。
香蘭社や深川もクラシックでデルフト窯を彷彿とさせる建物だった。
窯業の学校もあり、焼き物の街だった。
空港への帰途は、大村湾沿いの一般道で早岐を回りハウステンボスの前を通り皆60キロで飛ばす。
大村線の「千綿」(ちわた)という可愛い無人駅に立ち寄った。
青春18切符のポスターになった所らしい。
ちょうど長崎から佐世保行きが着いて、通学の高校生がパラパラと降りてきた。
自転車に乗ったり、お迎えの車だったり、帰宅してゆく。青春だ!
長崎、有田はとても楽しかった。
長男のおもてなしに感謝。
元気でしっかり暮らして下さいと祈る。
長崎では中国やヨーロッパとの交流を感じ、古今東西のリンクが面白かった。
白村江の戦い、元寇、秀吉の朝鮮出兵、と何度か歴史で習う朝鮮や大陸との摩擦と交流。
そして多くの渡来人によってもたらされた情報・技術、それを取り込んだ文化。
何と言っても九州は大陸に近い。
焼き物のエリアへ出かけた。
山坂の街は海から入る以外は、すぐに峠越えの道となる。
天領は思っていたより狭く、今の長崎県は諸藩に分かれていたらしい。
シーボルトの居所の鳴滝から螢茶屋を経て高速に乗り、一気に佐賀県を目指した。
まず波佐見へ レンガ造の四角い煙突がある。
やきもの公園でいろいろな窯を見学した。
登り窯
棚田は彼岸花が咲き始め、稲穂が色づいて来ていた。
よくもこんなに石を積んで水を回し、と里山の秋に感心した。
遠くの方は、水田ではなく茶畑のようだった。嬉野茶もあったと思い出した。
有田へ入った。
秀吉の朝鮮出兵時に朝鮮から来た李参平が見つけたとされる、泉山磁石場へ行った。
解説板に「400年かけてひとつの山を焼き物に変えた」と言われるとあった。
白くサラサラの石だった。
ここから白磁が日本で焼けるようになったとか。
ひと山分の土が焼き物になり、日本だけでなく遠くヨーロッパにまで渡って行ったのだ。
「すごいことだねぇ〜」と息子と二人で感嘆!
昨年、ソウルの博物館で見た朝鮮靑花(白磁染付)とリンクした。
トンバ塀の通りをぶらぶら散策し、陶山神社や九州陶磁博物館などを見学し、アウトレットを冷やかし、レンガの煙突があちこちに建っている有田街歩きを楽しんだ。
香蘭社や深川もクラシックでデルフト窯を彷彿とさせる建物だった。
窯業の学校もあり、焼き物の街だった。
空港への帰途は、大村湾沿いの一般道で早岐を回りハウステンボスの前を通り皆60キロで飛ばす。
大村線の「千綿」(ちわた)という可愛い無人駅に立ち寄った。
青春18切符のポスターになった所らしい。
ちょうど長崎から佐世保行きが着いて、通学の高校生がパラパラと降りてきた。
自転車に乗ったり、お迎えの車だったり、帰宅してゆく。青春だ!
長崎、有田はとても楽しかった。
長男のおもてなしに感謝。
元気でしっかり暮らして下さいと祈る。
長崎行(市内) [旅]
大雨で洪水になりたくさんの被害が出た。
心よりお見舞い申し上げます。
その後、秋の空が広がった。
長男が独立し、長崎で暮らしている。
一度、訪ねたいと思っていた。
行ってみたい所、食べたい物などのリストを知らせるように言ってくれていた。
言われた通りに知らせたら、2日間仕事を休みおもてなししてくれた。
お天気は、雲も出て暑くなくちょうど良かった。
飛行機も順調だったが、そろそろ降下?と思われた頃に一度だけ揺れた。
夜のニュースで阿蘇山が噴火したと知り、時間的にちょうどその頃だったのでこれだと思った。
市内行きのバスで松山町へ向かいそのバス停で待ち合わせ、まず平和公園へ。
中国人だらけ、ここも浅草みたいと思ったら、クルーズ船が入港中だそうだ。
高校生の時に訪れて以来の48年ぶりの長崎、ずいぶん観光地として整備されている。
浦上天主堂へ歩く途中に長崎名物アイスと教えてもらい、トライ。
路面電車は乗り換えても120円で浦上川沿いに港方面へ移動し、香港上海銀行の建物へ。
バスが多く走っている。
中は梅屋庄吉の記念館になっていた。
上海のバンドの(セントポールと密かに呼んでいた)香港上海バンクとは規模が違うが、長崎にも必要があって支店を構えていたのだった。
そういえば、日銀だって長崎にも釧路にもある。
その後、チャンポン発祥の四海楼で遅い昼食、皿うどん太麺とチャンポンが美味しかった。
店内から岸壁のクルーズ船(SAPPHIA PRINCESS)がよく見えた。
食後はグラバー園、大浦天主堂、小菅修船所、出島と見学して日没後の稲佐山へ
下山して、遅い夕食が卓袱料理で盛りだくさんの長崎の1日だった。
長崎は浦上川と中島川の谷沿い以外は山坂で坂道は曲がり平らな所が少なく、斜面にぎっしり建物が建っている。
原爆とキリスト教と東インド会社+出島の歴史が異国情緒ある特別な街にしている。
バスと路面電車の歴史が古く、暮らしに便利。
素敵な街だ。
翌朝、シーボルトの住んでいた鳴滝へ行ってみた。
真っ平らなオランダ人が作ったオランダの国土とはまるで違う、長崎らしい谷筋だった。
2010年にオランダのライデン・シーボルトハウス茶会の記事はこちらから
心よりお見舞い申し上げます。
その後、秋の空が広がった。
長男が独立し、長崎で暮らしている。
一度、訪ねたいと思っていた。
行ってみたい所、食べたい物などのリストを知らせるように言ってくれていた。
言われた通りに知らせたら、2日間仕事を休みおもてなししてくれた。
お天気は、雲も出て暑くなくちょうど良かった。
飛行機も順調だったが、そろそろ降下?と思われた頃に一度だけ揺れた。
夜のニュースで阿蘇山が噴火したと知り、時間的にちょうどその頃だったのでこれだと思った。
市内行きのバスで松山町へ向かいそのバス停で待ち合わせ、まず平和公園へ。
中国人だらけ、ここも浅草みたいと思ったら、クルーズ船が入港中だそうだ。
高校生の時に訪れて以来の48年ぶりの長崎、ずいぶん観光地として整備されている。
浦上天主堂へ歩く途中に長崎名物アイスと教えてもらい、トライ。
路面電車は乗り換えても120円で浦上川沿いに港方面へ移動し、香港上海銀行の建物へ。
バスが多く走っている。
中は梅屋庄吉の記念館になっていた。
上海のバンドの(セントポールと密かに呼んでいた)香港上海バンクとは規模が違うが、長崎にも必要があって支店を構えていたのだった。
そういえば、日銀だって長崎にも釧路にもある。
その後、チャンポン発祥の四海楼で遅い昼食、皿うどん太麺とチャンポンが美味しかった。
店内から岸壁のクルーズ船(SAPPHIA PRINCESS)がよく見えた。
食後はグラバー園、大浦天主堂、小菅修船所、出島と見学して日没後の稲佐山へ
対岸は三菱造船所
出島で出会ったVOC東インド会社
下山して、遅い夕食が卓袱料理で盛りだくさんの長崎の1日だった。
長崎は浦上川と中島川の谷沿い以外は山坂で坂道は曲がり平らな所が少なく、斜面にぎっしり建物が建っている。
原爆とキリスト教と東インド会社+出島の歴史が異国情緒ある特別な街にしている。
バスと路面電車の歴史が古く、暮らしに便利。
素敵な街だ。
翌朝、シーボルトの住んでいた鳴滝へ行ってみた。
真っ平らなオランダ人が作ったオランダの国土とはまるで違う、長崎らしい谷筋だった。
2010年にオランダのライデン・シーボルトハウス茶会の記事はこちらから
蝉時雨 [日記・雑感]
暑さもやっと盛りを過ぎ、気持ちの良い風が吹いてきた。
散歩の途中に、九品仏浄真寺にお参りした。
この夏は、娘が入院し肝を冷やした。
「首のリンパが腫れて、、、」と電話があった時には、もう来てしまったか!と思った。
癌家系で、娘の祖父・祖母・父親、皆が癌なので、いつかはと覚悟はしていたのだが、孫もまだ小さいし、何としても治さなくてはと急いだ。
渡辺謙さんもちゃんと治して活躍しているから、と自分に言い聞かせていた。
幸い癌ではなく、1週間ほどで退院できた。よかった!
保育園は本当にありがたかった。
孫もパパとちゃんとお留守番できて、成長を感じた。
そんなこんなで、暑い夏は過ぎて行った。
久しぶりの九品仏は、青紅葉の影が揺れ、境内は蝉時雨だった。
平穏な夏の終わりを迎えられ感謝し、家族の福寿康寧を祈った。
平和で良い秋が訪れますように!
散歩の途中に、九品仏浄真寺にお参りした。
この夏は、娘が入院し肝を冷やした。
「首のリンパが腫れて、、、」と電話があった時には、もう来てしまったか!と思った。
癌家系で、娘の祖父・祖母・父親、皆が癌なので、いつかはと覚悟はしていたのだが、孫もまだ小さいし、何としても治さなくてはと急いだ。
渡辺謙さんもちゃんと治して活躍しているから、と自分に言い聞かせていた。
幸い癌ではなく、1週間ほどで退院できた。よかった!
保育園は本当にありがたかった。
孫もパパとちゃんとお留守番できて、成長を感じた。
そんなこんなで、暑い夏は過ぎて行った。
久しぶりの九品仏は、青紅葉の影が揺れ、境内は蝉時雨だった。
平穏な夏の終わりを迎えられ感謝し、家族の福寿康寧を祈った。
平和で良い秋が訪れますように!
七夕の贈り物 [日記・雑感]
今年も入谷の朝顔を頂いた。
嬉しい!ありがとうございます。
なでしこさんも世界一の準優勝で本当によくやったと拍手。
世の中は次々と色々な事が起こっている。
今年はジメジメと梅雨寒の日が続き断捨離もなかなか進まないが、そんな日はこんな事やあんな事などして過ごしている。
6月に世田谷区の「株式会社ものづくり学校 PTA」IIDカフェにてボタンのデータを作成し、3Dプリンタで出力してハート型のボタンを作った。
gaccoでデジタルファブリケーションを受講し、興味があった。
茶道具はすべて一点物、試してみたいと思っていた。
左のモジョモジョはベース部分。
利休さんは竹を切って花入を作ったが、3Dプリンタはどうかな?
真似事のジャーサラダ
箪笥の断捨離で、チュニックをと思ったが、できてみればただの作務衣に終わった。
そんな毎日が過ぎてゆく。
嬉しい!ありがとうございます。
なでしこさんも世界一の準優勝で本当によくやったと拍手。
世の中は次々と色々な事が起こっている。
今年はジメジメと梅雨寒の日が続き断捨離もなかなか進まないが、そんな日はこんな事やあんな事などして過ごしている。
6月に世田谷区の「株式会社ものづくり学校 PTA」IIDカフェにてボタンのデータを作成し、3Dプリンタで出力してハート型のボタンを作った。
gaccoでデジタルファブリケーションを受講し、興味があった。
茶道具はすべて一点物、試してみたいと思っていた。
左のモジョモジョはベース部分。
利休さんは竹を切って花入を作ったが、3Dプリンタはどうかな?
真似事のジャーサラダ
箪笥の断捨離で、チュニックをと思ったが、できてみればただの作務衣に終わった。
そんな毎日が過ぎてゆく。